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くま

Story #1
松下 琴乃
こっちゃん

 

心をひらく

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幸せとは

幼いころから「みんなの幸せは自分の幸せ、自分の幸せはみんなの幸せ」という感覚と共に生きてきました。
自分だけが幸せでも嬉しくないし、自分以外の人が幸せでも自分自身が自己犠牲的であったら嬉しくない。「では、どうしたら良いのか?」と長い間、問うてきました。


心をひらく

紆余曲折、試行錯誤を繰り返しながら、最終的に行きついたところは「心をひらく」でした。一人ひとりが、自分を超えた大きな何かとつながり、その命を生かしあっていくこと、そんな世界って幸せなんじゃないかと思っています。不確実性の高い時代において「心をひらく」ことは、勇気のいることかもしれません。

​それでも、私はそう在りたいと思っているし、在り続けます。

自分の命がどんな風に生きたがっているのか、耳を澄ませながら、日々を丁寧に大切に生きていたら、自然とここに辿り着きました。

​たくさんの人に囲まれて

自由な文化と古風な文化の狭間
私は、アヴァンギャルドな父と古風で保守的な母のもと、愛知県名古屋に生まれ育ちました。私が生まれてすぐに両親が喫茶店を始めたこともあり、物心ついた時には商売というものが生活の中にあったように思います。
両親だけではなく、喫茶店のお客さんや保育園の先生など、周りの人々との関わりの中で育ててもらいました。血の繋がりがなくとも家族なんだと感じられる原点はこの頃の体験が大きく影響しているように感じます。


一人でなんとかする精神
両親が切り盛りするお店はいつも繁盛しており、私は幼いながら両親の仕事の邪魔になってはいけないと一人遊びが上手な子になっていきました。当時は無自覚でしたが、私は徐々に親や周りの期待に応えるため、そして迷惑や負担をかけないため、自分を表に出すことを避けるようになっていきました。自分はどのようなことを期待されているのか、それに応えることは出来ているのかといった感度がとても高かったように思います。幸か不幸か、当時はそのような自分にストレスを感じずに生きていました。
 
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自分を殺すことで適応する

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絵をかくのが大好き
小学校に上がると、人と関わるよりも一人で空想に耽ったり、絵を描くのが好きな物静かな女の子になっていきました。成績優秀、行儀はよく、本音と建前を使い分けられるような空気の読める女子であった私は、どこに出しても恥ずかしくない子であったと思います。勉強以外の時間は、散策して野花を摘んだりスケッチしたり、空想画を描いたり創作活動をするのが好きでした。
 
人の期待に応えるのは疲れる
小学校の高学年にさしかかる頃には、私は人の期待に応えたり、顔色を伺う生き方にウンザリするようになっていきました。1週間がまるで1か月のように感じられ、体が重く「幸せって何だろう?」と自問自答する日々でした。そのウンザリ感は少しずつ私自身の「イキイキ感」を殺していきました。

突然、植物人間になる
そんなある日、突然、体が動かなくなり緊急入院をします。難しい脳の病気で、私はみるみるうちに植物状態になり、余命宣告をされました。その後、奇跡的に回復し完治するのですが、このことがキッカケになり「人生とはある日突然ピリオドが打たれることもある。自分らしい人生を歩むべきだ」と人生観が大きく変わりました。


 

人生のリセット

植物人間からの復活
死の淵から戻った私は、全てのことを学びなおしました。歩くこと、食べること、鉛筆を持つこと、笑うことは当たり前ではなかったことに気がつきました。徐々に回復した私は、自然と、自分を押し殺すのではなく「自分はこうしたい!」という意見を持ち、表現できるようになっていきました。

不本意だった受験
リハビリで体の機能を取り戻した私でしたが、退院後すぐに母から中学受験の準備の話をされました。「せっかく、体の機能を取り戻したのに、私はまたお母さんの操り人形にならないといけないの?」こんな言葉が心の中に沸いてきました。

生きたい人生と期待の間の葛藤
母が私に受験を勧めたことは将来のことを想ってのことであったと理解していながらも、私は周りの期待に応えることに抵抗を感じていました。自分の力で人生を歩んでいく力を削がれているような感じがしたのです。しかし、自分らしく生きていきたいと願いながらも、私が選択したのは結局、母や周りの期待に応えるということでした。


 
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不登校でどん底に

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自分らしさって何?
中学受験を経て、無事母の望む学校に入学したものの、あまり幸せではありませんでした。自分らしく生きていきたいという願いはどんどん大きくなっていきましたが、同時に自分がわからなくなっていきました。そんなある日、突然、起き上がれないほどの倦怠感と頭痛が私を襲いました。
 
不登校
その日を境に、私は学校に行けなくなりました。病院では自律神経失調症と診断され、親子カウンセリングを受けることになりました。親や親戚からは不調を責められることも多く、自分は家族の中の厄介者なのだと感じ、申し訳ない気持ちで絶望の日々を過ごしました。

本音を言うこと
カウンセリングの場で、はじめて「自分は操り人形になりたくない」「自分は社会不適合者で親不孝だと思うが自分らしさを捨てきれない」と告白できたことは大きかったように思います。3年という月日をかけて、私は徐々に自分を取り戻していきました。


 

​ARTで自分を取り戻す

奇跡の復活
中学3年間ほとんど学校に行けなかったのですが、絶望を味わい切ったところで、サナギが蝶になったように突如変容が起こり、体調も気持ちも急浮上しました。そして、なんとか高校に上がることができました。復活できたのは、カウンセリングでしっかり話を聞いてもらえた影響が大きかったと思います。
 
リンゴのデッサン
そんなある日、美術の時間に描いたリンゴの作品がきっかけで先生から呼び出されます。「あなたは才能があるので芸術大学を目指した方がいい」と言われ、ARTの世界に足を踏み入れることになりました。先生から紹介された美術研究所には、様々な個性的な子が集まっていました。社会から逸脱しているタイプが勢ぞろいなのですが、不思議と話が合い、私はそんな仲間や制作活動を通してさらに自分を取り戻していきました。

自分らしさのために戦う
私が自分らしさを取り戻すのと平行し、親とのバトルも加熱していきました。私は自分らしく生きたい想いと親の期待に応えたい想いとの間で常にゆれていました。度重なるバトルの影響で家族との関係性も一進一退、少しずつ変化していきました。


 
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自分らしく生きることは罪?

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自分らしさと家族の間で
20代前半は思い切り自分らしく生きることに重心を置いて過ごしたのですが、25歳で結婚したことを機に、自分だけではなく家族のことも含めて考えるようになりました。そして、改めて家族との繋がりをより尊重したいと感じるようになりました。 親やパートナーの期待に応えることで調和が保たれましたが、私は自分らしさをどんどん失っていきました。

私が私でいることの意味
私が周囲の期待に応えれば応えるほど、期待は膨らんでいきました。そして、期待が膨らむにつれ、私の心は疲弊していきました。気がつけば、私は、一家の大黒柱、家事全般、夫のサポートなど、両手に抱えきれないほどの役割と責任を担っていました。そうした中で、精神的な限界が訪れ、私が1年間海外に行き別居をしました。そこでの冷却期間を経て、私が私でいることの意味を改めて見出していきました。

妊娠と出産と離婚
帰国後、もう一度やり直そうと思っていた矢先、妊娠していることがわかりました。私が自分らしく生きることと夫から求められていることが両立し得ないことや、数々の話し合いを経て、お互いのために離婚を決意しました。その背景には機能不全家庭、DV、依存症、イネイブラー等のお互いの家系から引き継いでいる文化がありました。数々の非難をされた選択でしたが、夫婦にとっては必要な選択でした。


 

人生を引き受ける

過酷だけれど幸せなシングルマザーライフ
シングルマザーになってからの人生は、モノクロからカラーになった程の違いがありました。そのプロセスの中で自分らしさを取り戻しつつあった頃、私はコーチングに出会います。そこで「人はもともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」という言葉に出会い救われました。紆余曲折あり、社会から逸脱してしまったけれど、この波乱万丈な人生を引き受けて楽しんで生きていこうと思えたのです。
 
​人生そのものがART
コーチングや様々な探究と実践を通して「自分次第でどんな人生も創り出せる」という感覚が宿りました。そして、私の人生を常に揺さぶってきた「家族」にも改めて真正面から向き合うことが出来るようになりました。家族との葛藤が解消された頃、素敵なご縁があり、再婚してステップファミリーになりました。課題が多いと言われるステップファミリーですが、それも含め引き受けて楽しみ創造している今日この頃です。

血がつながっていなくても家族
最近、何も言わなくても、何もしなくても繋がっている、そんな感覚を感じることがあります。血がつながっていなくても、戸籍上での関係性がなくても、そういうものを超えて、私たちは繋がっているよね?!と思うのです。うまく説明できないけれど、表層的なところではなく、深いところで繋がっているような感じがするのです。
それを体現していくのが、私たちNo Bordersなんじゃないかなと思っています。



 
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