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キャンディーコットン
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Story #2
近藤 あつこ
あっちゃん

 

​湧き出る想い

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山中湖の森の中で
昨年山中湖の森の中に入った時に、2日目の森の中で「私、会社を創るんだな」という気持ちがふっと湧いてきました。そして、No Bordersのこっちゃんとなべさんの顔が浮かんできました。森の中で、そんな気持ちが湧いてくるなんて、思ってもいなかったので、自分でも驚きましたが、とても自然な流れに感じました。そのあと、2日目、3日目とずっと森の中で、この会社の事について1本の白樺の木と対話をしました。

湧いてきた言葉は「いる」
その中で、ふと湧いてきたのは、「いる」という言葉。“居る、要る、生きる”。私の深い所でつながり、命に触れた瞬間だったと思います。その言葉が出てきたとき、大粒の涙があふれて来ました。一人でボロボロと森の中で泣きました。嬉しいとか悲しいとかそういう感情を超えた、体験でした。会社のことを考えると、まだ見ぬとても大きな可能性を感じ、心がわくわくしました。森から戻ってからすぐに、2人にメッセージをしたことを昨日の事のように覚えています。

 

​「働くこと」への関心​​

商売人に囲まれた環境
実は、私にとって会社を創ることは、人生においてとても自然な流れの中にいると最近感じています。私は、福井県の中心地で生まれ育ちました。幼稚園や小学校の友達の多くは、家が家業を会社をやっている子がほとんどで、サラリーマン家族の方が少人数という環境の中でした。祖父母も親戚もほぼ全員自分で会社を起こしたり、家業をしていました。祖母も母も仕事を忙しくしている姿をずっと見ていたので、自分もそういう人生を送るのだろうと思っていました。

働くことで自己表現
自分はどんな仕事をする大人になるんだろう、と小さい頃から、仕事について考えていることは多かった子どもでした。私にとって、「働くこと」は、小さい頃から大切なテーマだったと思います。働くことを通じて、自己表現したいという意識が昔からありました。



 
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私の居場所

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環境が一変する経験

実家の会社が経営面で厳しくなり、家計事情も住む家も全部が変わり、それまで生活が一変するという体験を小学生の高学年から中学時代に経験します。小学生時代6年間、大事に貯めていた貯金通帳が一夜にしてゼロになって戻ってきたのことは、その当時の私にはつらい経験でした。その頃、母は心労がたたって入院が必要な程の体調も不調になってしまいました。まだ心の病への理解がほとんどされていなかった時代。母からは、「お母さんが病気であることは言ってはダメ」と言われ続けていたので、このことを誰一人にも言いませんでした。

 

​自分の感情や心を切り離していく

誰にも自分の胸の内を話せないことが、長く長く続きました。どこにも居場所が無いと感じ、一度だけ担任の先生に、「どこにも居場所がないと感じている」と話したことがあります。その時、担任の先生に、「居場所は自分で作るもの」と言われた時に、冷たい灰色の気持ちになりました。10代の頃、自分の心の内を話したのは、その一度きりだったと思います。今振り返ると、母の気持ち、担任の先生のその時の気持ちは、とてもよく分かります。それでも、その時は、どうしてこんなに生きるのは辛いのだろうと、自分の感情や心を切り離していくような感覚が起きていました。

​心が動く

​ジェンダー/フェミニズムとの出会い
そんな感情や心を切り離していた高校生の頃、図書館で、遥洋子さんの「東大で上野千鶴子に喧嘩を学ぶ」という本をたまたま手に取りました。はじめて触れるジェンダー/フェミニズムの世界に触れた時でした。その本を読むにつれ、どんどんと心が高鳴っていったことを覚えています。何度も何度も繰り返し、その本を読みました。女だからとか、世間ではこれが当たり前だから、という社会の慣習や価値観ではなく、本当に自分自身が力をつけていく、エンパワーメントしていくことができるんだということを感じたからです。ジェンダーやフェミニズムの学問は、私には可能性の塊のような学問だと思いました。

自分で自分をエンパワーしていく
大学の1年生の時に、日本の女性のM字型雇用形態モデル(結婚、出産して仕事をやめる特徴が他の国よりも編著)を知った時に、もっともっとこの勉強がしたいと思い、色々な本を読んだり、先生の所に話を聞きに行ったり、ゼミに参加したりと熱心に学びを深めました。大学と大学院で、この分野の学びをすることができたのは、私の人生にとって大きな財産だと思っています。ずっと私にとって、女性が文化的に意味づけされた価値観でなく、自分の力を信じて立ち上がる姿は、自分で自分をエンパワーしていく姿は、私にとって一番心が揺さぶられる瞬間です。


 
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​世界は敵。私は誰?

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​​​癒されていない自分

10代〜20代のころの私は、どうして、世の中はこんなにも息苦しいのだろうと、世界を敵だと見ていました。周りから、「癒し系だね」と言われる度に、いつも怒りを腹の底に感じていました。全然、私の心の中は平和でなく、癒されていなく、心の中は黒いことを沢山感じていると思い込んでいました。だから、そういうことを言われることがとても嫌でした。

 

​逃避と執着

研究者になることを志していましたが、就職をすることを選択したのは、自分自身が修士論文を執筆することに苦しんだという経験もありますし、周り人たちどこか常に苦しそうに見えたというのも大きな理由でした。その色々な気持ちを、その頃お付き合いをしていた男性に入り込むことで逃避をしました。あんなにも夢中になった学問よりも、優先順位を高くしてしまい、その人が居なくなったら、私は何者でもなくなってしまうと信じていました。とても執着していたと思います。結婚も含め10年間、自分で自分を勝手に明け渡してしまった、そんな風に捉えて、自分の愚かさや無力さを感じ、自己肯定感もとても低い状態でした。

​コーチング、そしてNo Bordersとの出会い​​

​コーチングとの出会い​

私は離婚を選択し、そのあとに家族との不和や転職先の職場の人間関係もうまくいかないという色々が一気に重なりました。体調不良がもっともピークになったのもこの頃です。その時に出会ったのが、コーチングです。コーチングに出会って、本当に自分の人生は一変しました。あんなに息苦しいと思っていた自分の底には、誰よりも生きることを切望している自分がいました。同時に、とても大きかったのはコーチングを通じ、本当に自分自身が自然体でありのままでいられる仲間が増えたことです。

私の可能性を私以上に信じてくれ、見守ってくれる人がこんなにもいるんだ。そして、これまでもずっと気がつかなかっただけで、きっと沢山いたんだと心から思えるプロセスを数年に渡って重ねていきました。そうしていくうちに、気がつくと、世界は敵ではなくなっていました。喜びも悲しみも感じながら、生きること全てを祝福したいと思える自分になっていきました。

​そして、No Bordersへ​

この私の変化の過程を、NoBordersの2人はずっと見守ってくれていたと思います。特に何も言わず、へえ、そうかそうかと、あたたかい眼差しで、どっしりと。そして、一緒に、さまざまな挑戦をしてきました。私の大事な居場所はここにあるんだと心から思えています。同時に、この活動の場が、我々に関わる全ての人たちにとっても心地よい場になっていて欲しいと願っています。私が居るし、あなたが要るし、ともに生きる。そんな場を、No Bordersを通じてもっと分かち合いたいと思っています。

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